日経新聞「あすへの話題」 2015年12月16日

源氏物語にはたくさんの気象現象が出て来る。およそ70年にわたる光源氏とその子供たちの物語の場面で、紫式部はさまざまな天気をおどろくほど効果的かつ正確に使って話を展開させている。さっと降るしぐれの情景が登場人物の繊細な心を映し出し、ダイナミックな嵐が物語を大きく変化させたりする。
 12年ほど前、私は源氏物語のなかに出て来る気象を調べて一冊の本にすることが出来た。きっかけは気象予報士になって間もなくお天気キャスターの仕事が終わり、さらに気象に携わっていたいという気持から、文学に出て来る気象について調べようと思ったことに始まる。源氏物語という大きな山に気象という登山口から登って行った形である。大學の講座に通い気象学者の朝倉正先生や国文学者の野口元大先生にもお世話になった。
そして源氏物語から教えられたたことは、千年昔の人々も、春夏秋冬の巡りのなか、現代とほとんど変わらない気象現象のもとで、同じように喜び、悲しみ、嫉妬し、悩みながら生きていたということであった。世の中が進歩し宇宙ステーションの時代を迎えても、人間としての感性は千年前と全く変わらず、ということはこれから千年後の人々もほとんど変わらずに、人間が人間であるが故に生じるさまざまな葛藤を繰り返しながら生きてゆくに違いないと、確信に近い形で実感させられた。
そしてそのように思えたとき、人類の長い歴史のなかのほんの一瞬を生きる人間一人一人の人生がとてもいとおしいものであることに気づかされた。私にとっては源氏物語から、いえ、紫式部からいただいた最高のプレゼントだと思っている
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